大鐘家(牧之原市)

 


長屋門正面
長屋門の前を通る道が田沼街道(田沼意次が宝暦8(1758)年、相良藩主となり整備した道)です。

大鐘家主屋正面
 大鐘家の祖先は古く、足利時代中期の建徳年代(1511年)越前の国丸岡(現在の福井県丸岡町)の出身であります。そして、大鐘家七代目大鐘藤八郎貞綱は、越前北の庄の武将柴田勝家の養子柴田勝豊の城代家老として仕える。(天正8年)。その後、勝豊の病死により、柴田勝家を裏切る(不仲)。
 そして、天正11年(1584年)の冬、豊臣秀吉の重臣として仕える。この年、柴田方と豊臣方との間に戦が始まる。賤ヶ岳合戦である。藤八郎も豊臣秀吉側として、五百の勢を従え戦った。秀吉軍の勝利となったが、豊臣秀吉の重臣加藤肥後の守清正にきらわれて、慶長2年(1597年)丸岡をすて、遠州の地、静岡県牧之原市(旧相良町)の地に移住しました。
 江戸時代初期より江戸時代中期頃まで旗本であり江戸屋敷を持っており徳川将軍に仕えておりました。そして、この大型屋敷を建築しました。
 昔は『大鐘館(やかた)』と云う大鐘家は、昭和48年6月2日付にて、国の重要文化財として指定されました。民家建築としては、この地方最古の建造物です。重要文化財に指定されたのは、主屋と長屋門の二棟です。長屋門の建築は江戸時代の中期の安永時代です。(棟札が出る。)
 大鐘家は、江戸時代中期の元禄時代より江戸時代末期まで長い間、この地方の大庄屋となり、また豪農として権力をふるいました。大庄屋は、昔は、経済面と法律の二つの職を持っておりました。昔は、大鐘家には与力が勤めておりました。
 昔の大鐘家は三千石以上の格式を持っておりました。主屋内の柱と梁は江戸時代初期の様式であり、ほとんど手斧けずりです。太い梁と太い男大黒(おだいこく)と女大黒(めだいこく)の二本が大鐘家をささえております。
 また、昔大勢の人々に食べさせた大カマドもあります。そして、現在に至っております。
手斧けずりの太い梁と柱 十畳の間 平井顕斎画の襖絵
渡辺崋山の弟子で榛原町出身の画家)
床の間
小堀遠州の庭 大カマド
大鐘家に仕える人々に食べさせたカマドです。

 

200年前の米蔵が史料館になっており、大鐘家に残る秘蔵の宝物が常時展示されています。 山岡鉄舟の掛軸
幕末三舟の一人。(勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟)刀の達人であり無刀流を名のる。
    

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